今や、私たちの生活になくてはならない存在となった保育園ですが、その起源はどのようなものかご存知ですが?全く分からないという方も多いのではないでしょうか。しかし、待機児童を初めとする現在の保育問題を考える上でも、その歴史について学ぶことは大切です。そこで、保育園の始まりから現代に至るまでの歩みについてまとめてみました。
世界的に見て、保育園の始まりはヨーロッパの産業革命がきっかけだと言われています。女性労働者が急速に増える中で、子供の世話をする者がいなくなったため、必要性に迫られて保護施設が作られたのです。日本でも始まりは似たような状況でした。国内で最初に保育園が作られたのは1871年ですが、これは混血児救済という目的のためにアメリカ人の宣教師によって建てられたものです。一般に向けて開かれた施設としては、1890年に新潟で開設された託児所が最初でした。これをきっかけにして託児所は日本全国に広がっていきます。ヨーロッパと同様に働く女性が増え、子供のいる母親が仕事に専念できるようにと紡績工場の経営者や社会事業家が開設したものでした。ただ、現代の保育園と異なるのは、直接児童を預かるのではなく、子守りのために学校に通えない子供たちを対象としていた点です。当時は、兄や姉が幼い弟や妹の面倒を見るのが当たり前だったために、このような形になっていたのです。しかし、それも次第に多様化し、戦争孤児のための託児所や農家を対象にした繁忙期専門の託児所など色々なタイプの施設が開設されるようになりました。
初期の託児所はすべて民間経営によるものでした。しかし、1919年に治安悪化や貧困の対策として大阪で国内初の公立保育所が開設されます。それから京都、東京、神戸が後に続き、全国へと広がっていきました。特に、東京では1923年の関東大震災以降の増加が顕著です。ただ、保育所や託児所は保母資格などの法律上の制度がなかったため、法令制定を求める声が高まってきました。1938年には保育園を管轄する厚生省(現・厚生労働省)が設置され、戦後の1947年に児童福祉法が制定されることで、ようやく保育園はその法的根拠を得たのです。国が定めた基準をクリアして都道府県知事に認可をもらう認可保育所という制度もこの時に生まれました。翌年の1948年には児童福祉施設最低基準が定められ、児童の数に対する保母の人数や園舎の広さなどに関する最低基準が設けられます。そして、1965年には、厚生省が保育所保育指針を初めて打ち出し、保育とは養護と教育を一体と捉えたものであるとの見解を示しました。これによって、現代へとつながる近代的な保育園はその完成をみたのです。
高度経済成長期においては、外でお金を稼いでくる夫と家を守る専業主婦というのが一般的な家庭の姿でした。つまり当時は、仕事に出て子供の世話が十分にできない母親は少数派だったのです。そして、そんな母親たちに育てられる子供は「保育に欠ける」と規定され、そうした子供たちを保護する保育園は一種の福祉施設のような扱いでした。そのため国は、保育園を福祉サービスの一環として画一的かつ効率的に管理しようとしてきました。あくまで福祉なので自由競争下には置きたくないというわけです。ところが、1985年の雇用機会均等法の制定に伴い、状況は大きく変化します。働く女性が急増し、保育園に子供を預けるのはあたり前の時代が訪れたのです。1980年には専業主婦家庭の半分に過ぎなかった共働き家庭は、90年半ばにその数を逆転します。こうなっては、国の統制の元、厳しい条件をクリアしたものだけに保育園開設の許可を与えるといった今までのやり方では、増え続ける需要に対応できません。その結果、生まれたのが待機児童の問題です。そのため、各自治体は2001年から保育所への民間参入を呼び掛けて独自の認証保育制度を作り、政府も2012年に子ども・子育て支援法を制定して改革に乗り出しています。また、雇用機会均等法は保育園にもうひとつの変化をもたらしました。保母さんという呼称からも分かる通り、それまで保育園の仕事は、ほぼ女性ばかりで占められていました。それが法律制定後、保育園で働く男性が急増したのです。彼らは保父という俗称で呼ばれていましたが、1999年には男女の統一名称として保育士という言葉が誕生します。そして、2002年には男性の保育士は1万5000人を越え、その3年後には、さらに10倍の数になったと言います。このように、保育園は男性職員の増加や待機児童問題に伴う改革によって大きな変化の途上にあるのです。しかしいずれにしても、子供たちやその母親にとって保育園が重要な存在であることに変わりがなく、保育士の必要性もますます高まっています。保育園の変革が良い流れに向かうためにも、保育に対して情熱を傾けられるという方は、真剣に保育士の道を検討してみてはいかがでしょうか。